開邸35周年記念特別企画展 第二部


伝来された品々 事業と物語
―歴史と歩む―


平成29年 7月14日(金)〜9月中旬



 元禄二年(1689)に初代原光が「新潟屋」を開業して300有余年、商いを堅実に行いながら様々な事業を行っています。飛砂の害から町を救うための黒松の植林事業、荘内藩への財政支援、「本間農場」を設置し農業振興などを、書簡や絵図などより紐解きます。
 庄内海岸は、塩を作る燃料のため木が伐採され砂漠化しました。田畑や家屋は砂に埋まり、強風の日は戸を閉め、外出もできず苦しめられます。そこで、三代光丘は私財を投じ、悲願だった黒松の植林を行いました。
同時に、学問を志す青年のため学問所(接待寺)を建立しようと38年間にもわたり幕府に願い出ますが、「新寺建立禁止令」で許可されませんでした。黒松の植林は成功させ、田畑を耕せるようになりました。現在では、庄内海岸に長さ34キロメートルにもわたるグリーンベルトが形成されています。





宝暦八年願書


宝暦十二年 西浜植付届書案


松林銘碑(明治41年)



 大正7年、光丘の功績が認められ贈位があり、人々は光丘を讃えるため「光丘神社」を設立。八代当主光弥は感謝の気持ちと光丘の意志を継いで、これまで収集した何万冊もの蔵書を寄贈し、「光丘文庫」を設立しました。酒井家、風間家の協力のもと「荘内育英会」を設立し、育英事業は今日も続けられ、もうすぐ100周年になります。光丘の夢は実現されています。





光丘神社


光丘文庫


荘内育英会 会報



 江戸時代、大凶作になると年貢米を納められなくなり、農民は田畑を捨て離散してしまいます。そこで本間家に田畑を耕させるようにして欲しいとの要望が出され、田畑を集積し米が穫れる田に変えていきました。これが大地主への道となります。飢饉対策として庄内の八ヶ所に巨大な倉庫を建て、籾を備蓄し、藩へ献納します。天明の大飢饉においても荘内藩では一人の餓死者も出さず、東北一円から難民が流れてきたそうです。





安永四年 備荒貯蓄籾


寛政五年「富国安民策」の写し



 明治には、六代当主光美が九州より馬耕教師伊佐治八郎を招き「本間農場」を設置し、湿田から乾田農法に変え、馬や牛、くわなどの道具を使い、以前よりも楽に稲作が行えるようになりました。稲の品種改良、農業指導、スイスから大きなポンプを取り寄せ、耕地整理などにも努めました。現在のような庄内米、つや姫などといったブランド米ができるようになったのです。





日枝神社に奉納された農具


揚水ポンプ


現在の庄内平野と最上川



 来年「明治維新150年」ということで、激動の時代庄内で起きた大きな出来事、「天保お国替え事件」「戊辰戦争」についても紹介します。NHK大河ドラマ「西郷どん」に合わせ、西郷隆盛の書も展示します。





「四方喜我志満」絵抄



戊辰戦闘絵巻



酒田が「日本遺産」に認定されたことについて
 三代光丘までは雇いの船で、四代光道の頃から自前の北前船で商いを行っています。能登から取り寄せた黒松の苗、各地で収集した蔵書、本間美術館、本間家旧本邸、寺社仏閣の建築・寄進、京都の人形師に発注した祭りの山車「亀笠鉾」。これらのことは北前船が無かったら出来なかったことで、今尚大切にされています。前回の企画展同様、北前船の物語もこの歴史史料で展覧します。
 今できる事、今しなければならない事を着実に行い、地域に貢献した歴史物語をお楽しみ下さい。



四季折々の山海の幸が豊富で「食の都 庄内」と言われるほどです。
「ゆったりのんびり」心と体をリフレッシュさせ、おいしい食をお食事処やレストランでご満喫下さい!



「ふるさとの味覚」


:天然岩牡蠣 鮑のステーキ 口細カレイ のどぐろ 鮎 だだちゃ豆 メロン etc...


:ハタハタの湯あげ いくら ワラサ(寒ブリ) アマダイ ノドグロ もって菊

  いも煮 きのこ料理 庄内柿 梨 etc...
 etc...



素敵なお土産をお持ち帰りください。